今日も歩き働き遊び新宿三丁目に芸術が根付いた本当の理由を考える。

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新宿三丁目新聞編集長のGENTAです。
前回は商業の視点から三丁目を掘り下げたが、今回は問いをひとつに絞りたい。「なぜ新宿三丁目界隈に芸術が根付いたのか」。地方の方にとって新宿は歌舞伎町のネオンが先に浮かぶかもしれない。しかし、わたしが毎日歩いている三丁目の風景はまったく違う層でできている。百貨店、書店、寄席、映画館、神社、庭園。それぞれが単体で存在しているのではなく、互いを支え合いながら文化を育ててきた。この街は偶然芸術的になったのではない。芸術が残り、育つ条件が揃っていた場所だった。その理由を、順を追って整理していくよ。

宿場町と庭園がつくった「余白」の構造

新宿は江戸時代に誕生した内藤新宿という宿場町が始まりだ。甲州街道に新設されたまさに「新しい宿」であり、人が泊まり、去り、また新しい人が訪れることを前提につくられた町だった。流動性を受け入れる構造は、最初からこの土地の性格だったと言える。さらに重要なのは、内藤家の広大な屋敷地、現在の新宿御苑の存在だ。宿場町の賑わいのすぐ隣に、大名庭園という静寂の空間があった。動と静が隣接する二層構造は、都市に独特の呼吸をもたらす。賑わいだけの街では芸術は定着しない。静けさだけの街でも広がらない。

新宿御苑 起源は江戸時代の内藤家屋敷地。1906年(明治39年)皇室庭園として開苑。開苑120年目。(2026年2月24日(火)新宿三丁目新聞撮影)

芸術が根付く街には、必ず「余白」がある。
新宿御苑という緑の広がりは、三丁目界隈に精神的な奥行きを与え続けてきた。地方から訪れる方にもぜひ歩いてほしい!ターミナルから数分で庭園に辿り着く都市は、世界的に見ても希少だ。この構造が、創作と鑑賞の両方を受け止める土壌になった。

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関連リンク:新宿御苑 (@shinjukugyoen_info)(Instagram)
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花園神社と祭りが守った「場の力」

三丁目からほど近い花園神社も、芸術の土壌を語るうえで欠かせない。江戸期から続く鎮守であり、酉の市や例大祭では今も多くの人が集う。祭りは単なる行事ではなく、街に周期を与える装置だ。定期的に非日常が訪れ、人々が同じ空間で笑い、祈り、語り合う。戦後、新宿は闇市から復興し、娯楽の街へと変貌したが、その中心には常に神社があった。混沌のなかで「場の記憶」を保ち続けた存在だ。

花園神社 江戸時代初期創建と伝わる新宿総鎮守。創建からおよそ400年以上。(2026年2月24日(火)新宿三丁目新聞撮影)

芸術は無秩序からは生まれにくい。支えとなる場があってこそ育つ。
弊誌も毎年正月には初詣に出向きご祈祷をしていただくが、花園神社の存在は、三丁目界隈に精神的な芯を通し、寄席や劇場、映画館が安心して根付く基盤となった。地方の方にとっても、神社という存在は街を理解する入口になるはずだ。

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関連リンク:トップページ – 新宿の総鎮守 花園神社のサイトです。 花園神社

映画館と寄席が育てた「物語の街」

新宿は戦後、映画館が集中する街となった。現在の新宿ピカデリーへとつながる映画文化の系譜は、三丁目界隈がスクリーンと物語の街であった証だ。映画は都市を映し出す芸術であり、観客はスクリーンを通じて自分の生活を再発見する。さらに新宿末広亭の寄席は、落語という話芸を日常の娯楽として残し続けてきた。笑いと物語が徒歩圏で体験できる環境は、表現を身近なものにする。

新宿ピカデリー 前身は1920年(大正9年)開館の新宿松竹館。映画文化の拠点として106年目。(2026年2月24日(火)新宿三丁目新聞撮影)

新宿三丁目は「見る街」であり「聴く街」でもある。
観客が育つ街は、表現者も育つ。映画館と寄席が長く存在し続けたことは、三丁目が単なる商業地ではなく、物語を受け入れる器を持っていたことを示している。現時点では「ウィキッド永遠の約束」と「劇場版 転生したらスライムだった件 蒼海の涙編」を推しており、館内の階段のデコレーションやモニュメントは毎度見応えがありますよ。ちなみにわたしは両作品共に今週末に鑑賞予定です。笑。

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関連リンク:映画『ウィキッド 永遠の約束』公式サイト
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書店と画材店が支えた創作の現場

紀伊國屋書店と世界堂の存在も均等に語るべきだ。書店は知を供給し、世界堂は制作の現実を支える。本を読み、思想に触れ、道具を手に入れ、作品をつくる。この循環が同じエリアで完結することが重要だ。伊勢丹が人を呼び込み、商業の賑わいが生まれ、その流れのなかで文化施設が機能する。

紀伊國屋書店 新宿本店 1927年(昭和2年)創業。創業99年目。(2026年2月24日(火)新宿三丁目新聞撮影)

芸術は「環境」がなければ続かない。
三丁目界隈は、観る、読む、つくる、発表するという工程が地理的に近接している。この条件が長年維持されてきたことこそ、芸術が根付いた最大の理由だ。地方の方にとっても、これほどコンパクトに文化体験が凝縮された街は珍しいだろう。こちらの画像は珍しく甲州街道側の裏手の出入り口です。新宿通り側の表の出入り口は関連記事よりご確認ください。新宿三丁目駅構内からも直通です。

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関連リンク:紀伊國屋書店新宿本店

芸術の街から「食」の街へ続く時間

ここまで見てきたように、新宿三丁目界隈は宿場町の流動性、庭園の余白、神社の場の力、映画館と寄席の物語、書店と画材店の制作環境という複数の要素が重なり、芸術を受け止める都市構造を形成してきた。偶然ではなく、歴史の積み重ねが条件を整えてきた結果だ。そしてこの流れは、次に「食」へと自然につながっていく。宿場町は旅人をもてなす場所であり、土地の味が生まれる場所でもある。内藤とうがらしの復活や老舗の暖簾は、芸術と同じく土地の記憶を編集し直す営みだ。

内藤とうがらし 江戸時代に内藤新宿で栽培された伝統野菜。栽培歴史はおよそ300年以上。(2026年2月24日(火)新宿三丁目新聞撮影)

芸術も食も、街の時間を受け継ぐ表現である。
次回は、この三丁目に息づく食文化を歴史から辿りたい。芸術が根付いた理由を理解すると、新宿の味の奥行きもまた違って見えてくるはず!

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